秋田県羽後町 若がえりまんじゅう本舗 有限会社お菓子の泉栄堂 代表 泉恵子氏
創業からの歴史
先代の社長は主人でしたが病気で他界したため、わたしが跡を継ぐカタチで5年前に社長となりました。主人の祖父の時代からまんじゅうを作っていましたので、創業としては100年を超えています。祖父がまんじゅうを作っていた頃、砂糖は貴重品。甘い物はよく売れた時代だったと思います。まんじゅうやアメ、せんべいなどを背負い、町の山間部へ歩いて行商へ行っていたと聞いています。
50年ほど前はパンの製造もおこなっていて、学校給食を作っていたこともあります。羽後町で初の学校給食事業として請け負い、各学校へ配達していました。その頃は子供の人口も多かった時代で、町にある小学校は本校と分校に分かれていましたのでかなりの数を配達していました。その後、米飯主体の給食へ時代は移り変わり、5升焚きの釜数50台でご飯を炊いて手計量していたこともありましたが、学校給食事業からは撤退し、本業である菓子製造一本になっていきました。
「若がえりまんじゅう」名前の由来
一番の売れ筋商品である「若がえりまんじゅう」は、今から十数年前に試行錯誤して開発しました。先代の社長がこの商品を作った時に、名前をどうしようか悩んでいました。「若がえり」という言葉は、平成6年に廃業した西馬音内酒造の「清酒 若がえり」があったことで、羽後町では浸透している言葉(若がえりまんじゅうを商品化した時、既に西馬音内酒造は廃業)であったこと、私たちがまんじゅうを卸している先は温泉地が主であったこともあり「温泉に浸かり若返っていただきたい」という思いも込められています。
お客様のニーズを活かす
菓子製造一本になってから、外販に30年以上出掛けています。今まで続けてこられている要因として、骨身を惜しまず外販しているからではないかと思います。販売数が悪いと心が折れてしまう外販。売れなかった時、なぜ売れないかを考えない出店者もおられますが、私たちはみんなに喜んでもらおうと、トコトン考え次回へ繋げています。こういった努力を惜しまずにやってきました。
昔は県の物産展への出店を主にしていました。この当時、渋谷の百貨店でおこなわれた秋田県物産展で、手の空いている時間に、ハチ公前で呼びかけしながら販売すると通行人がドンドン物産品を買っていくという出来事が起こりました。この時、田舎のまんじゅう屋が都会に自社で出店販売してどこまでやれるかを試したいと思いが湧いてきて、やり方次第では自社で販売していけると判断もでき、物産展への出店を辞め、自社で駅での催事出店をおこなう方向へ舵取りしました。となると、都会の鉄道会社や駅に営業に行くことになります。右も左もわからない手探りのまま営業をかけ販路を切り開いていきました。
当時は、そばまんじゅう一本で外販していましたが、それでもすごく売れた時代。しかし、次回の出店の際には、ウチが売れた商品を真似して持ってくる業者も現れ、このままではいけないと商品を増やしていきました。
ある日、出店していたお店を訪れたお客さんが、「あたしが売るなら、まんじゅうを笊(ざる)にとって買い物したい」といった声を聴き、すぐ民芸品屋に買いに行って実践してみました。すると、電車利用を目的とした人たちが、笊を手に取り足を止めて待ってまで買い物し、楽し気にしている。催事販売では、お店を訪れてくださったお客様からの声を逃さず販売へ繋げてきました。
現在の従業員数は17名、月の半分以上は外販に出ています。繁忙期には、製造に携わる社員も外販に出掛けています。作り手が販売の現場に出て自分の作ったものがどのように売れるか、お客さんがどのような反応をするかを知る事は、作り手にとっても良いことで、工場にいて製造に携わっているだけでは感じられないことがあり、すごく大事なことだと思います。私たちが田舎で商売を続けてこられたのは、30年以上前から外販へ出ていき商売をして、お客さんの生の声を聴くことができたからだと考えています。
この地域だけで商売をしていると、お客さんが何を欲しがっているかわかりません。実際にお客さんの「あれは無いのか?」「これはどうなんだ?」という声を聴き、次の機会には持っていけるよう工場へその声を届け、商品開発をおこなってもらう。地域から外へ販路を求め出ていっていなければ、今は無かったと思っています。
東北の震災時には、販売先がなくなってしまうこともありました。主力販路を偏らせていると、販売先に問題が起こった時に自社の受ける影響は大きいと考え販路を分散し、いろんな分野に広げています。今では車中での販売が当たり前になった物産品ですが、これが主となる前に、秋田を巡るバスツアーを組む旅行会社へ営業に行き、「地方の菓子屋さんで車中販売の営業で訪ねてこられたことはない」と商品の取り扱いしてくれたこともありました。
最初は、自分たちでアポイントをとり営業し販路をつくってきましたが、現在は、全国に商品の販路を持て、都内の空き店舗利用など催事出店の依頼もいただくようになってきました。
夏季の暑い時期は、消費者ニーズが水物へ流れ、まんじゅうなどの和菓子業界は手の空く時期。6月までは東京などで催事をおこない、夏季は地元のイベントへ出店しています。また、この期間を商品研究や企画開発の時期とし、10月からまた外販へでていきます。ウチの商品づくりはみんなで考える。ネーミングもお客さんが喜んでくれる名前にしようとみんなでアイディアを出し合い、現在の商品数は、季節販売するアイテムも含めると50種ほどとなっています。
今後の目標
昨年7月は、羽後町に道の駅がオープン。事業者会員として登録して商品を出していたので、夏季はいつもの年よりも忙しくさせていただきました。我が社は外販中心で町内に直販店舗を持たずにやってきましたから、町内で常時販売する場所はありませんでした。道の駅うごができ、商品を常時販売できる場所が町内にできたことは、非常にありがたいと感じています。
東京などで外販していると「羽後町の米が欲しい」「田舎のみそが欲しい」というニーズを直接聞くことがあります。私たちが知らない販路や可能性にもチャレンジ出来ると思います。
また、「道の駅うご」が、オープン時の賑わいを持続していけるよう今後も盛り上げていきたいとも考えています。他の道の駅などを見てきた経験から、今後イベントをやっても普段の集客数程度になる可能性もあると思います。ですが、羽後町の道の駅は、訪れた方がくつろげるスペースが多くあり、ゆったりと楽しい雰囲気があります。惜しまず協力していきたいです。
近隣市町村では後継者がおらず廃業される菓子屋さんも少なくありませんが、羽後町は近隣市町村と比べてまんじゅう屋の屋号を持つ菓子屋が多く残っています。各店は後継者それぞれが頑張って、自社の固定客を掴み販路を切り開いてファンを増やしていっていると感じます。泉栄堂としては、旅行会社と提携していることからツアー企画を出してほしいと依頼されていることもあり、町の各所を巡るツアーなどを企画提案できればと考えています。会社のある五輪坂にはアルカディア公園が広がり、隣接する足田堤のため池には蓮の花が綺麗に咲きます。桜並木もあり、春には見事に花が咲きとても素晴らしい景色となります。羽後町には他にもステキな景色が広がる場所がたくさんありますので、「町の良さを再発見する」ツアーを企画提案し町へ多くの方を呼び込みたいと考えています。
ライター:崎山健治 2016年5月に大阪市から秋田県羽後町へ移住。 羽後町に関西のノリを広め、秋田と大阪の文化をミックスしたいと考える一方、 地域の問題・課題を事業として解決したいと起業を目指し活動中